JRヘルシーウォーキング2019、次回9月22日は、銭函駅「秋を感じる潮風と浜辺の風景 石狩湾の眺望満喫、工業団地をめぐる銭函ウォーク」です。

アイヌvs松前藩・和人商人”最後の戦い”の結末とは

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アイヌ最後の武装蜂起「クナシリ・メナシアイヌの戦い」

日本の年号で寛政元年にあたる1789年5月初め、現在の「北方領土」と日本で呼ばれているクナシリ(国後)島のアイヌ41人が次々と蜂起します。松前藩士を始め、場所請負をする飛騨屋の支配人や通辞(通訳)、番人らを次々と殺害しました。

さらに対岸のメナシ地方(現在の根室管内)シヘツ(標津)付近に住む89人のアイヌもそれに呼応し、チウルイ(忠類)沖に停泊中の飛騨屋所有・大通丸を襲撃し、海岸にいた支配人らとともに乗組員も殺害。結局、71人もの和人がアイヌによって殺される事態となりました。

過酷な労働に反発したアイヌ

この戦いに至ったそもそもの原因は、当時の和人によるアイヌ酷使にありました。クナシリ島やメナシ地方は、もともと松前藩の交易地でしたが、1774(安永3)年から飛騨屋が交易を請け負うようになります。

その背景には、飛騨屋からの多額の借財を返済できない松前藩が、借金の形にこの地のアイヌとの交易権を飛騨屋に与えた実情があります。しかし、飛騨屋の交易は赤字が続いたため、交易に加えて現地のアイヌを労働力にサケやマスを使った〆粕(しめかす)を生産するようになります。〆粕は当時、本州で畑の肥料として広く使われるようになり、需要が高まっていました。

しかし、飛騨屋のアイヌたちの使い方には、大きな問題がありました。アイヌを暴力と脅迫により半ば強制的に働かせ、わずかな報酬で、自分たちの食糧を確保する暇も与えないほど、酷使していました。また、女性アイヌに性的暴力を加えたり夫がいる女性アイヌを妾(めかけ)同様に扱う支配人もいるなど、クナシリ島やメナシ地方のアイヌたちの我慢は、限界に達していたのでした。

1789年クナシリ・メナシの戦い|根室市
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