JRヘルシーウォーキング2019、次回11月23日は、苗穂駅『苗穂駅新駅舎開業1周年記念! 産業遺産めぐりと札幌開拓の歴史を偲ぶ、苗穂ウォーク』です。

アイヌの「異文化びと」と「和人」の接触~交易(中世)

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鎌倉時代に入ると、いわゆる「和人」(以下では、アイヌとの関係において、当時日本人とされていた人を指す歴史用語として用います。歴史的経緯に則して近代にも用いる)が、北海道(当時、蝦夷カ千島あるいは夷島(えぞがしま)と呼ばれていた)との交易を盛んに行うようになっていきます。

室町時代に入ると、「諏訪大明神絵詞(すわだいみょうじんえことば )」という書物の中に、蝦夷カ千島の住人の中には何度通訳を重ねても言葉の通じな い人々がいると記述されています。この言葉の通じない「異文化びと」と見られていたのが、後に「蝦夷」(えぞ)と呼ばれたアイヌの人々です。

15 世紀半ばには、渡島半島の沿岸に和人の拠点(館)(たて)が12ヶ所築かれます。この館主(たてぬし)たちは、先住していたアイヌの人々と交易を行い当初は相互に拮抗を保っていましたが、交易の拡大に伴い和人の居住地が次第に拡大し、やがて様々な抗争が起きるようになります。

コシャマインの戦い(1457 年)

松前藩が残した「新羅之記録」には、函館の旧名である宇須岸(うすけし)の15世紀の様子について、「年3回、若狭(福井県)から商船が来て、宇須岸には問屋が軒を並べている」と記されています。これにより志海苔のあった宇須岸一帯が、非常に栄えていたことがわかります。その側に12の館のひとつ「志海苔(志濃里)館」がありました。

この志濃里を舞台に「コシャマインの戦い」が起こります。

「新羅之記録」には以下のような記述があります。

志濃里の鍛冶屋村に家数数百有、康正二年春乙孩来て鍛冶に刀を打たしめし処、乙孩と鍛冶と刀の善悪を論じて鍛冶刀を取り乙孩を突き殺す。之に依て夷狄悉く蜂起して、康正二年夏より大永五年春の迪るまで、東西数十里程の中に住する所の村々里々を破り、者某を殺す事、元は志濃里の鍛冶屋村に起こる也。活き残りし人皆松前と天河とに集住す。

アイヌの青年乙孩(おつかい)が和人の鍛冶に小刀 (マキリ)を作らせたところ、出来の良し悪し、もしくは値段についてのことで言い争いとなり、和人の鍛冶屋が乙孩(おつかい)を刺し殺した。これをきっかけに、アイヌが一斉に蜂起し、和人アイヌと和人間で戦いが起こります。1457(元禄元)年、コシャマインという長(おさ)に率いられたアイヌの人々が和人の 12の館のうち 10 館を攻め落とします。茂別館(上磯町茂辺地)と花沢館(上ノ国町勝山)のみが残り、和人たちは次々とこの二つの館に逃れました。

コシャマインの死と戦いの終結

戦いはアイヌ優勢のうちに推移しましたが、花沢館にいた武田信広(松前家の祖)がわずかな兵を率いて進撃し、上磯町七重浜付近でコシャマイン父子を倒しました。これによりアイヌは敗れ、松前氏の蝦夷地での発展の基礎が築かれました。その他のアイヌも多数殺害されたことにより終結します。これは和人とアイヌの初めての大規模な武力衝突でした。しかしながら、破竹の勢いで各館を落としていったアイヌ勢が、なぜ敗北に至ったのか、詳しい経緯は未だ分からず、コシャマインについても東部の首長であることしかわかっていません。

抗争の終結

コシャマインの戦い以後、断続的にアイヌと和人との衝突がおこります。当時、アイヌの勢力は強大で、抗争は長期に及びましたが、道南の和人勢力を統一した蠣崎(かきざき)氏は、16 世紀半ばにアイヌと講和し、諸国から来る商人から徴収した税の一部をセタナイ(瀬棚)とシリウチ(知内)のアイヌの長に分配することとしました。

この講和により、 90年以上にわたって続いたアイヌと和人の間の抗争は終結し、平和が訪れ、アイヌの文化の中 に多くの和人の品物が持ち込まれ、和人の側にも数多くのアイヌの品物が入り込むようになります。この時期のアイヌの人々は、和人との関係において生産者であり交易者だったのです。

新羅之記録 文化遺産オンライン

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